(C) The International Conference of Design for Sustainability

グローバリズムの光と影

Capter

1 一度目のグローバリゼーション
2 二度目のグローバリゼーション
3 グローバリゼーションのフィードバック
4 東洋と西洋
5 地域生活者と地球市民
6 多様性と相補性
7 3つのスフィア
8 自治
9 サステナブルデザインの可能性

特別シンポジウム

「グローバリズムの光と影」

 講師:星川 淳/作家、翻訳家、グリーンピース・ジャパン事務局長

おはようございます。先日のエコプラザに続き、今日もお話をさせていただきます。先日の話とはちょっと趣向が違いますが、精神としては同じですね。僕自身は、もともとデザインのマインドを強く持っておりまして、久しぶりに第一日目のエコプラザに参加させて頂き、古巣に戻ったような懐かしさを感じました。サステナブルデザインについての動きが、多くの方々の真剣な熱い思いとともに進んでいる事を実感して、刺激をうけました。今日はその刺激を受けたものを下敷きにしながらお話します。

「グローバリズムの光と影」というタイトルですが、なかなか難しいお題を頂いて、なにを話したものかと、考えましたのは、こういうグローバリズムという問題に対して議論をする時に、典型的なひとつの捉え方というのがあると思います。ひとつは、今非常に問題になっている金融と言うことです。経済の分野で、暴走と言えるような資本の拡大というものがあり、それから、不公平・不公正な搾取、またそれに伴い人間の世界では、地域住民先の生業環境が脅かされ破壊されている。そしてそれと同時に、NGOや政府の領域になってきますが、開発ということをどのように、より公平・公正なものにしていくかという問題。そんな問題意識というのがグローバリズムにはいつも付きまとっています。

今日はもちろん、そういうことも念頭に置きながらですけれども、僕自身が今まで、また今、関わってきていることが、今お話したような金融などと直接の専門家ではありません。もちろん、環境は関わるのですが。金融などは直接の専門家ではないので、視点を少しずらしてみようと思います

普通グローバリズムではあまり取り上げられない3つの視点(軸、角度)について触れます。このテーマを考える時に、こういうことを念頭に置き、目配りすると、より深くグローバリズムの問題について考えたり議論できたりするのではないかと思います。また、今回の会議テーマであるサステナビリティに向かう時にも役に立つのではないかということで、これまでの自分の仕事の中から軸を拾ってみました。

1 一度目のグローバリゼーション

一つ目ですが、僕は人類はこれまで、何度かのグローバリゼーションのようなものを経てきていると思っています。

第一のグローバリゼーションは、人類が発祥したと言われているアフリカから、今の定説では2つの波でアフリカ以外のところへ出て行ったと言われております。いろいろな説がありますが、700万年から現在までの間に、例えば30万年前、第二波が10万年前と、最新研究をフォローしていないので、ちょっと数字は曖昧ですが、その当時の体と心をもって世界に広がっていきました。そして、第二波の中でも我々にとっても非常に身近な同じ血をわけるモンゴロイドというひとつの種族の拡散が1万年程前から始まって行った。これが注目すべきなのは、ユーラシアの比較的中部から東にモンゴロイドは出路があると考えられますけれども、そこから、先ず氷河期最後、ベイリング海峡と言われるユーラシアとアメリカの陸の架け橋をとおって、現在の北アメリカへ、そしてさらには南米地域へと非常に速いスピードで広がって行ったと考えられることです。

それからもうひとつは、時代は下がって、5000〜2000年前間に、今ベイリング海峡というのは比較的北の北方モンゴロイド、さらに次の波として、南方からおそらく、台湾・フィリピン・インドネシア・中国南部、ひょっとしたらメコンデルタ辺りから出発した人々が太平洋の南の方をずっと東に向かって拡散して行った。これは船をつかって拡散して行った。ポリネシア人期限とされる動きです。そこで、その両方とも暮らしのセットをもって拡散していったわけです。南太平洋の拡散においては舟という非常に限られた器を使っていくわけですので、そこに未来の暮らしの種を全部載せて行く訳ですね。当時は狩猟を主にする生業ですが、そこには栽培・農耕の兆しと考えられるような植物の種を持ち、豚やヤシなどの種と生業、また、土器、水をもっていったわけですね。そういうセットを持ちながら拡散していった。これをグローバリゼーションというのかどうか、首をかしげる方もいらっしゃるかと思いますが、我々の現代生活の基盤を作ってきた意味で無視できない全世界化、全地球化というものだと思います。モンゴロイドというのは全アメリカ、太平洋を含めて地球上のもっとも広い地域に拡散していって定住圏を広げた種族とされています。

2 二度目のグローバリゼーション

二番目は時代が下がりますが、15世紀のモンゴルの民族です。モンゴルステップから発祥してモンゴル帝国、政治的な覇権を築きました。あまり語られませんが、これはルネッサンスの直前です。モンゴル民族を中心として、覇権の波が西欧に及んだことによって様々な東西の文化の刺激、交流が行われ、その中には近現代の我々が当たり前に思うような仕組みも含まれていました。

例えば、法治、基本的人権、平等、信教の自由、学校教育普通教育、郵便制度。あまり、注目されない要素として、そういうことがありました。

モンゴルの覇権の影響として、ルネッサンスが西に生まれていき、ここから今言ったような近現代の社会制度基盤のようなものを、モンゴルから貰って広げていった、というのは現在に繋がる面があります。

三番目は、一番典型的にグローバリゼーションの原点とされている、いわゆる大航海時代(Age of discovery)という時代です。一方的ですけれども西欧から出発した人々が航海して地球の様々な地域に到達し、そこの自然と人々を破壊し搾取し、そして、産業革命という物に繋がってゆく。その中には今言ったような地域文化、生態系の破壊も含まれます。現在の多国籍企業の素になるような会社、企業形態というものも生まれます。もう一つ面白いのは、自然人とか自然法というような西欧のものとされる概念が、実はこの時代の大航海の末に、獲得にされた概念、考え方であるという事があります。

以上が非常に大風呂敷といいますか、僕独自のグローバリゼーションの捉え方なのですが、参考になればと思います。

3 グローバリゼーションのフィードバック

そして、その結果として、今色々なことが起こっている訳ですけれども、これは、原生林破壊、森林火災の光景です。

先ほど触れた自然人という所をちょっと深堀します。地域は環太西洋に限って注目をしてみます。ヨーロッパと南北アメリカとの間にどのようなフィードバックがあったのか。もちろん、大航海時代に西欧から出かけて行った人達はアメリカに限りませんけれども、ここに、近現代の世界の「種」になる注目すべき交流があったと僕は考えており、ここに注目したいと思います。

「ダブルスパイラル」というフィードバックがあったと考えます。何を持ち帰ったかというと、思想的政治的認識、営みがあったということに注目します。

図の1を見て下さい。最初に、ヨーロッパから航海者、探検者、研究者が危険を冒して、海に乗り出していきます。大発見の時代です。南北アメリカを見ると、そこに到達して、そこの風物を見、そこから、色々とヨーロッパに持ち帰った物があります。図の2の部分をみてください。これが第1のフィードバックになります。何を持ち帰ったかというと、物質的な物はジャガイモやトウモロコシ、金、銀等の様々なものを持ちかえしました。

それに加えて注目して頂きたいのは思想的・政治的な認識、あるいは、営みがあったということに注目します。よくこの時代のキーワードにされるものに「ノーブ・サベージ」、「高貴な野蛮人」という訳語がありますが、ルソーの思想によくとりあげられる言葉です。私は、あまりいい言葉と思わないので、「気高い未開人」と訳していますが、そういった人びとを実際に目にした探検家たちは、当時のヨーロッパは、かなり閉塞状況にあり、旧教から新教へかわりつつある宗教、思想的な状況にありました。非常に窮屈な迫害、弾圧があり、伝統的王権からさらに絶対王権へと向かっていく非常に締め付けの強いヨーロッパからみた時、なんと自由で自然な生き方をしている人たちがいるのか、と驚きのまなざしを持ちながら自国に報告をしました。

ここには様々な媒体がありました。口で持ち帰って話す、航海記録で持ちかえる、また、面白いのは、イエズス会のような、布教活動をしてゆく宣教師達がいるのですが、その彼らが最前線で見た風物を本国に報告するニューズレターのようなものがあって、それがその当時のヨーロッパで非常にアバンギャルドな読み物としてもてはやされていました。ヨーロッパにはない、しかし、ヨーロッパのその先を指し示すような人間の生き方、というような捉え方で、当時のメディアが伝える。

それで、第三のフィードバックとして、啓蒙主義思想が生まれます。定説では、啓蒙主義というのはヨーロッパ独自の思想、ギリシャローマからきているといわれていますが、実はそうではない。半分ぐらいは、こういった南北アメリカを初めとする異文化との出会いから生まれた新しい概念です。

今は窮屈だけど、もっとなんか別の生き方があるのでは、という強い信念、オバマ氏ではないですが、「ウィー・キャン・チェンジ」というような、そういう気持ちを当時のヨーロッパ人達に抱かせた。そのことによって啓蒙主義というのが大きく花開いて行くという刺激剤になりました。

で、ヨーロッパで、こういうものを思想の食べ物にしながら育って行った啓蒙主義思想が、第三のループとして、南北アメリカにさらにもういちど再移入するわけです。移民という、実際の人の中に乗っかってゆくわけです。ヨーロッパで宗教、思想的に弾圧され居場所がない、という人びとが、新しい新転地をもとめて実験的な社会を作るという、大志を抱いていった。その彼らの基盤という物は啓蒙主義だったわけです。

北米では、一番端的な例では、アメリカ合衆国という実験が18世紀以降行われ、ヨーロッパにはまったくなかった、王権や貴族という特権制度を廃止、完全に自由平等な人々のつながり、民主的な意思決定をしていくということです。もちろん、その中に、先住民、黒人がはいっていなかったという落とし穴はあるわけですが、そういった実験をし、少しずつ弊害を修正しながら。

アメリカの独立は、英語ではレボリューションです。戦争でなくて革命なんです。フランス革命とは思想的双子のような出来事です。数年を置かずして、起こっていて、人脈もアメリカ独立革命をやった人たちがフランスにわたって、フランスからみにきて、ほぼ同時に起こったのがこれらの革命ですが、そういったものがヨーロッパに広がって行って、さらに19世紀、20世紀と民主主義というものが世界に広がっていく。

これも大きなグローバリゼーションであると思います。こういうようなことが環太西洋をはさんで、ダブルスパイラルがあったわけです。

これは、いろいろな人びとの自治の動きがあるわけですね。自分たちを、どうやって、より民主的で平等なものにしていくかという動きです。

これは補足ですが、今までの2つのグローバリゼーションと環大西洋のダブルスパイラルというものを経た現在いわれるグローバリゼーションの対抗軸、よくいわれるので、新しくはないのですが、西洋と東洋というものがもちろんあります。

これはさきほどのモンゴルというのが下地にあり、民主革命18世紀から様々な動き、ループを伴ったものとしてあり、また、北と南というのがあります。西欧とアジア、アフリカ中南米というもののひとつの対立。今まさに、対立ではない別な様相にはいりつつあって、非常に興味深く注目して行くべきです。

4 東洋と西洋

東洋と西洋というのも様々な面で融合がすすんでおりますが、どこかにまだ残っている対立軸であります。

3つ目が持てる者と持たざる者という、最近の言葉で言うと勝者と敗者。

大航海時代依頼の植民地の経緯から、現在までのこるもの、貧困や格差、そういったものが厳然として残るし、場合によっては現在、さらに広がりつつあったりします。古い構造のもの、新しい構造のもの、白か黒かという対立軸ではないということは、皆さんもご存知のことと思います。これは、ある種のグローバリゼーションの弊害と言いますか、みられるようなことです。

その大航海時代の植民地化から現在まで厳然と存在する格差は、さらに広がりつつもあります。こういう、古い構造にも基づくもの、また、新しい構造に基づくものがあり、必ずしも白か黒かという対立軸ではありません。

典型的なグローバリゼーションの弊害として見られるようなものは、たとえば、森林破壊、オイル・スピルです。原油タンカーの沈没などによって起こるオイル・スピルの救済現場での画像です。こういうこともグローバリゼーション、石油文明の申し子だといえます。

5 地域生活者と地球市民

それから、もうひとつ、この間のアクティビストのお話でも取り上げました「Think Globally, Act Locally 」、世界的に考え、地域で行動するということ。

地球的なものの見方と、本当に地域で根ざした暮らし、そこの場で考え暮らしていくこと。一体これらは融合するのか対立するのか、統合できるのかということで、綺麗事ではないと思う事です。

僕自身の日本の地方に、屋久島に25年以上暮らしてきて、その中で悩み足掻き、いろんなことを解決しようとしてきた経験からいって、綺麗事ではないと思いますが、その2つの視点・立場は、今後の世界をよりよくするサステナブルということを考えるとときに、やはりどこかで統合していかないとうまくいかないと考えられますので、課題として念頭においておこうと思います。

非常にステレオタイプであると思いますが、地域的な視点、生き様というのは多くの場合、堅実であって安定性を重んじ、物の見方がどちらかというと狭くなりがちであり、やはり伝統的ものを重んじるということが強いです。

白黒あるというわけではありませんが。

また、一方グローバルなものの見方、考え方というのは非常に先鋭的であるり、変化をどんどん起こしていき、そして広角的なもののみ方である視野である傾向がある。また、伝統も革新していく。

ある部分では対立しながら、また一人の人間の中に両方の部分がありながら、ひとつの地域のでも非常に入り交じっています。日本という社会はその典型ですがこの2つが絡まりあって、ある場合には雁字搦めで、ある場合には非常におもしろいドライブを我々の文化に提供してくれたりします。

・海で遊ぶ子供たち。けれども実は、海面上昇をしていたり、場合によっては汚染をされていたりということもあります。

・こちらは、京都議定書の10thアニバーサルーですが、グローバリゼーションの典型的な例として京都議定書のような世界全体で取り組まねばならない課題に、日本人も一定の貢献をする、関わりを持つ、ということ。

6 多様性と相補性

結論めいたところを先に言ってしまうと、僕の考えでは、グローバリゼーションの光と影というものは、テーマに出しましたように、当然、プラス面とマイナス面があって、マイナスの面は、資本の暴走のような、非常に地域性を無視したような、ある意味では地球的な視野でただ突っ走ってしまうことがもたらす弊害 というもの。これには慎重であるべきだったり抑制的であるべきだと思ったりします。

しかし、地球温暖化に代表されるような、国境を考えていたのではとうてい立ち行かない様々な問題に取り組む時の共通ルールにおいては、やはりグローバルな視点、グローバルなコミットメントというものが絶対欠かせないと思います。

もうひとつグローバリズムを考えてゆくとよくキーワードとなるものが多様性と、また、もう一つ見ておくべきものとして、そう相補性つまり相互補完性。

多様性は本当によく使われます。来年は名古屋で国連生物多様性会議が開催されますので、今後生物多様性というのが今まで以上に重要な概念、行動指標となるでしょう。例えばCSRなどの分野にも、重要なコアとして注目せねばなりません。

またもちろん、文化の多様性というのがあります。我々はその土地土地に、生態系を基盤として織りなしてきた様々な文化を持っていますので、そこは重視しなければならない。また、生物が多様なだけでなく、生態系の多様性があるということにも着目せねばなりません。

地球という惑星をとっても様々な生態系がある。砂漠、熱帯雨林、氷河の生態系、日本のような穏やかな湿潤の生態系などいろいろあります。

それから、相互補完性の方は、多様性の要素ともいえますが、その多様なものがどうなっているかというと、多くの場合、成熟したシステム体系の中ではその様々な要素が補い合って全体を作り出し、全体の働きを支えているということです。それによってシステムの柔軟性、適用性、耐久性が生まれる。適用性がうまれる。 これはデザインという営みに関わる皆さんにはお馴染みのことだと思います。グローバリゼーションを押さえる一つとして抑えておきます。

これはどちらかというと、グローバリゼーションのプラス面かといえますが、南米でも植林活動をしているわけですけれども、今やそれは先進国だけの問題とゆうことだけではない。我々の直面する問題というのは古いステレオタイプでははかれない、そういうものをもっていては対応できないという時代に入っているということです。

7 三つのスフィア

それから、次は僕自身がアクティビストとして屋久島に長い間暮らし、今はグリーンピースジャパンの事務局長の立場で3年ほど過ごしてきて、こういう枠組みをもって、グローバリゼーション、あるいはサステナビリティというものを考えてゆくといいのでは、役立つのではというのをご紹介します。これはまったく独自のものでして、僕の経験と考えから、どうもこうだなというのがあります。

3つのスフィアというのがあります。スフィアというのは圏域というのがいいかと思いますが、1つめはバイオスフィア(地球生命圏/地球生物圏)、この地球という惑星上の命の展開する全体をさします。もうひとつはソシオスフィア(人間社会圏)、これは私の造語ですが、人間社会の集団としての合意形成、意思決定、ガバナンス、自治、自分たちをどのように治めていくかという圏域です。それからもうひとつ、テクノスフィア(科学技術圏)、人間の技術のカバーする領域です。

バイオスフィアというのは我々人間も他の二つも含んで存在している圏ですが、これは宇宙諧謔以来、地球誕生以来46億年、生命誕生から36億年、長い営みの歴史をへて、現在のような、この姿、我々を含んで生命の領域を形作っているわけですね。

それだけに非常に逞しい、常に変化していくという非常に高い完成度をもった圏だと思います。

人間が自然より素晴らしいものを作れるかというと、ご存知のとおり到底叶いません。そのような地球生命圏というものがあり、それはそれで、その営みというものを今も続けているわけで、たとえば、その地球生命圏に人間が持ちこんでいる温室効果ガスがどのようなものであるか、どんな影響をもたらすかということで、地球環境問題が進んでいるわけすね。これは人間がどうであれ、存在が進化し、変化し、成長し、進んでいくものであるわけです。

テクノスフィア(技術圏)というのは、古くは石器からはじまり、土器、農耕、産業革命を経て工業化、情報化というようなプロセスを経ながら、人間が本当にこの生態圏、生命圏の中で生きていくための工夫の集大成な訳です。ですから、それなりに(バイオスフィア以上ではありまませんが)かなりの完成度を持ち、圏としての整合性も高いものだというふうに思っております。もちろん、人間のすることですからまだまだ失敗も多く弊害、欠陥もあると思いますが、かなり高い完成度、整合性になっている。

一方、最後の人間社会圏(ソシオスフィア)が問題なのです。ここは集団としての合意、意思決定をして、自分たちを治めていくという圏域でして、ここが進化の度合いというところから見ますと、地球生命圏はもちろん、科学技術圏から見ても非常にまだ低レベルです。

例えば日本という社会をみると、個々の人間、一人一人、あるいは個々の企業だったり集団だったりはいいものを持っていたり、真摯な努力があったりするにもかかわらず、最終的に集団としての意思決定、合意形成ということがなされません。

例えば、国会というものをみてみますと、代表民主主義制という建前ですので、最高意思決定機関の国会ですが、国会で決まることはなんなのかといいますと、一人一人や個々の企業などが一所懸命やっていることの最前のものが活かされた決定がなされているかというと、まったく逆、最悪の決定がなされてしまったりすることがままならないわけです。

そういうところをみても、この人間社会圏のレベルというのはまだまだ未熟なのです。皆さんも異論はないのではないのではと思いますが、それがために、本来、科学技術圏という、人間の道具である体系と、自然の体系とのインターフェイスとどうするかということを決めてゆくわけですね。けれども、人間社会圏があまりにも未熟なために、なかなか、道具の体系とバイオスフィアとを共生させ、折り合いあわせるということの決断ができないわけです。

気候変動問題をみてみれば明らかです。国家という枠組みに邪魔をされているということも大きいですけれども、もうぜんぜん国際的な意思決定ができないために、行動がおくれてしまっている。日本という社会をみても、本来とるべき行動にコミットできないでずるずるとしている。現象はすすんでいくのに、それに対する道具体系や制度のデザインの対応ができない。ここが非常に問題だと思います。もちろん、他の圏域にも問題はありますが、人間圏の問題があるために、技術の展開ができないというところが、この二つの圏域をふくんだバイオスフィアと人間の様々な軋轢が増えている。そういった様々な軋轢が環境問題と総称される問題群であると思います。

最後に、人間圏の進化が大変遅れているということについて、掘り下げます。ガバナンスとも言えるといいましたが、人間の集団意思形成、合意決定をより多いものを形成していくことによって、自分たちを治めてゆく。それが民主主義のひとつの理想・原理でもあるわけですけれども、その時に重要なのは、公平性・公正性であったりするわけです。

それからもうひとつ、理解を共有できるか。日本的にいいますと腑に落ちるかどうか。納得度です。ステークホルダーや関係者が本当に納得しているか、していないかどうかというところがガバナンスの質を決めてゆくわけです。そういった時に、水平的な広がりと垂直的な広がりというものがあります。水平的な広がりというのは、人間社会における公平性だったりしますが、生態系の中での生物多様性などを念頭に置いた公平性・公正性であるのかどうかというのが問題であってここは課題にしなければならない。我々エコロジーや、サステナビリティといったことに関わる人間は、ここの部分結構意識が広がってきていわけです。

もう一つ重要なのは垂直的な広がり、クロス・ジェネレイショナルなものです。先ほど言いましたような、アフリカから出た人間圏、生態圏だけをとって見ても、生命の発祥から現在に至り、今後の将来世代にとっても、そこが公平・公正であるかということについてが、今後21世紀以降、重要な軸であると思います。ここを忘れてはいけない。この両方が必要であるということを強調しておきます。

これは自治の中でも重要なところ、人間社会の集団的な合意形成、意思決定に重要なところとして、民主主義の一番の原則である、三権分立、司法・立法・行政権という図です。それぞれが独立していて、互いが健全なチェックアンドバランス作用が効いているのが民主主義の健康な姿であります。もちろん民主主義というのはぜんぜん完全形ではなくて現在進行形の実験であるわけですけれども、どこもまだ完成していません。まだまだ未来の事だと思いますが、そこへ向かっていく運動そのものがデモクラシーです。

これの三権分立の全体の健全性を担保する者として、忘れてならないのが第四権力です。外側から、三権全体、あるいはひとつひとつひとつの機能が健全であるかどうかということをチェックしていく。ここが伝統的には、新聞であったりテレビであったり、メディアとされてきました。

しかしぼくは、この第四権力に、NGO、市民セクターというものが入っていると思います。ここをもっともっと強化していかなければならないと思っております。災害現場にいくと、メディアは報道するだけ、しかし、NGO市民セクターは、報道しないけれども実際に手を動かすと。そこは分業だけれどもある種の共働関係にあり、ある種の分業関係にあると。この2つが協同して第第権を構成して、三件をしっかり見張っていないといけないと。それが本当の民主社会のあるべきすがただと思っております。

特に日本のように、この三権が分立しているのかどうかもはっきりしない、非常に危うい状態、しかも最近では、メディアさえも取り込まれ分立していないのではという状況においては、非常にNGO・市民セクターの役割が大きいです。ある場合には独立メディアの動きをしながらも、民主主義を健全化してゆく大きな役割を担わなければと思います。

9 サステナブルデザインの可能性

今日の会議にちなんで、デザインの分野からなにができるのか? ということをお話したいと思います。科学技術圏の分野に関しては、もともとデザインがおおきくコミットしている分野ですのでよりサステナブルな帆横行でのシステム、プロダクトデザインというのが求められるでしょう。

そして、ソシオスフィアの中にはデザインマインドというのがもっと踏み込んで行って、政治参加のデザインをする。あるいは社会的な制度設計に自分たちの技量をいかしていく、ということです。この中には、法律、社会制度を含んだ制度設計という意味です。システムデザインです。

そして地球生命権に関しても、先ほど言ったようなインターフェイスの部分ですね、人間社会と科学技術とを含んだ人間の社会とバイオスフィアのインターフェイスをいかに共生的で、ともにいきられるものにするか、調和できることにしていくというのが、非常に大きなデザイナーの関わり、役割があるというふうに考えられます。

人々が参加しやすい、理解や納得が得られ易い、情報発信や道具立てを提供して行く、というのがデザインの役割があります。破壊現場をつたえるにも美しいやり方もあるし、そうでないやり方もあります。

どちらがいいというわけではないですが、デザイナーやアーティストの関わりによって、人々の関心のレベルが変わってくるのだと思います。デザイナーの関与する余地があるのではないかと思います。

最後に、これから山本先生との対論の下敷きに、グローバリゼーションと直接繋がる話ではありませんが、環境問題、温暖化問題等、の問題をいかに抑えていくか、それもひとつのシステムデザインですね、社会デザインですが、グリーンピースがどのような見通しを持っているかについてお話します。

今日はお帰りの時に、「エネルギーレボリューション日本版」というのが置いてあります。その中にも書いてあるのですが、グリーンピースは2050年までに全世界で温室効果ガス半減、先進国においては80%削減を最低限の目標にしなければならないとおもっております。けれどもIAEA(国際原子力機関)などほかの様々なシナリオと違いうのは、これは一次エネルギーの需要のグラフですが、先ず、ここの部分を半分くらいエネルギー利用効率の劇的向上、物質利用効率の向上、劇的な向上によって、エネルギー効率を半分以下に抑えていくというのがあります。現在より削減すると、今のようなラインを自然エネルギーで賄うかというと、到底無理なので。そこで、ここは充分今の技術レベル、あるいは今後のブレイク・スルーを考えると可能であると思います。

それに加えてリニューアブル、自然エネルギーを中心として最低限の天然ガス、化石燃料を抑えつつそういうもので賄って、2050年までに世界全体で50%削減、先進国では最低80%削減というシナリオを、日本ではどうなのかということを描きだしたのがこのエネルギーレボリューションです。

特徴は、原子力も段階的に廃止してよろしいと。なぜなら原子力は、最近ルネッサンスといわれていますが、実は、遅すぎる高すぎる危なすぎるという3つの弊害があり、実質的な温暖化の解決にならないとグリーンピースでは見ています。

なぜならもう、10年以内ぐらいからこういうシナリオに向かって社会デザインをし直して行かねば成らない時に、原子力では間に合わない。しかも原子力のようなインフラに努力とお金をむけてしまうと、本当に必要な変化を生み出せなくなるため、必要ないと考えています。それでも非常にコンサバティブな見方をしても、全世界で半減、60%削減というのはできるとみていますし、ここでみるように石炭や石油という者を抑えてゆくと。

先ほどいいましたように、一次エネルギーで50%削減できる。それから電気供給における自然エネルギーの割合は2060年までに60%までは増やしてゆける。また、熱供給に関しても、自然エネルギーがほぼ半分、47%ぐらい増やしてゆけると。こういうことで、先進国で80%、世界平均で50%削減ということが可能だというシナリオを描いています。

最近の山本先生のご著書などをみると、もっともっとおもいきってならなければならないのでは、という動きがみられますので、修正が必要かとはおもいますが、少なくとも今常識てきな議論の中でいう、2050年世界で半減、先進国80%削減というのは充分可能であると思います。しかも原子力や化石燃料にたよらないでできるとシナリオを描いておりますのでご参考下さい。

以上です。ありがとうございました。

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