(C) Rei Kubo

アクティビストとしての生き方

Chapter

1 デザインとの関わり
2 ACTIVIST アクティビストという生き方
3 原生林保護
4 使用済み核燃料中間貯蔵施設
5 ゴミ処理
6 アクティビストの7つ道具
7 デザイナーの関与
8 第4権の活性化
9 Deep Design

基調講演

「アクティビストとしての生き方」

 講師:星川 淳/作家、翻訳家、グリーンピース・ジャパン事務局長

皆さんこんにちは。沢山いらしていただいて、話がいがあってうれしいです。まずは、最初ちょっとだけ自分のことを話して、本題に入りたいと思います。
ぼくは、今ご紹介いただいたとおり、作家、翻訳家であり、自然と人間との関係を考えるある種の思想家であり、そのようなことをなんとなく仕事にしてきたわけですけれども、元々は東京生まれ東京育ちで、自然というものに本当にふれたのは、30歳のちょっと前くらいで、自慢をするようなナチュラリストではないかもしれません。自然について、専門的に勉強をしたわけでもないし、わりあい直感、なりゆきにまかせて考えてきた人間です。

1 デザインとの関わり

その中で、デザインという領域は、非常に小さい時から身近な領域でして、なぜかというと、僕は父親が家具の世界の人で、終戦直後の小さい会社で設計もやるし、インテリアデザインみたいなものもやるよう、なんでもやっている会社でした。昔は、設計図というのは、”青焼き”でした。父親が会社からいらない青焼きの紙を沢山もってきてくれ、その裏の白い部分に絵を描いて遊ぶというところから始まり、自分の生活には設計やデザインというものがなんとなく身近に感じておりました。その中から、特に絵がうまいわけではないのですが、絵や図案を描くというのに親しんできて、小学校の時は野球選手になりたくて、中学校の時はカーデザイナーになりたいと思っておりました。で、それと同時に、僕らの世代は60〜70年代というのは、日本、世界ともに非常に大きな政治的、文化的な変革のうねりがあった時代です。日本では60年安保、70年安保、全共闘運動など、非常に政治的な側面が切り取られて語られたり、記憶されたりしますが、同時に文化的な変革というのも同時に進行していきました。

そういう時代にあって、思春期、10代のころを、ビートルズですとか、ロック、ロングヘアー、皆さんが今当たり前に穿いているジーンズ、Tシャツ、フリーセックス、というような色々なうねりをまともに受けながら10代を過ごしたので、思春期だったので、あまりなんというかな、一言でいうと、世界というのはかえられる、自分たちがいいと思う方向に変えていける、という感覚をもって、青年期にいきました。

で、ぼくが大学に入る前の年に安田講堂攻防戦があり、あまり政治的には深入りしたわけではないんですけれどもノンセクトラディカル、全共闘運動の中心とうなるような考え方に共鳴をしていた高校生だったので、いわれるままのエスカレーターで行くのはやめようと思いました。

しかし、大学にいかないという考え方はすぐには起こってこなく、なるべく変わったところに行こうということで出てきた選択肢が九州芸術工科大学です。国立の新しく実験的に作られた大学で、そのコピーは「芸術と工学の融合」という、おしゃれなコピーで、いいなと思い、受けてうかって東京を離れました。しかし、環境設計というものをやろうと思ってはいったわけですが、差し障りがあってはいけないと思いますが、大学での内容というのは期待とはちょっと違うということ、新しすぎて何が新しいのかわからないという状況で、2年くらい行って、大学にいくよりも自分で環境設計という生き方をした方が面白いのではないかと思い、当時の言葉で言えば、ドロップアウト、中退することをえらんで、自学自習、自分の関心があることを学べる場所に身をおいて学ぶと。大体いいと思ったら違うところにうつり、学ぶ、ということを続けてきました。

(C) Makoto Tanaka
(C) Makoto Tanaka

2 ACTIVIST アクティビストという生き方

今のご紹介ですと突然グリーンピースの事務局長を引き受けて、アクティビズムに接触したと思われたかもしれませんけれども、僕にとっては、今お話しした生い立ちというものからして、行動という者がいつもあるのですね。一番最近は先程お話しした中からいうと大学をやめていこう20代いっぱいは遍歴、というか放浪ではないですが、いろいろ学びたい対象をしぼり、インド、日本各地、アメリカと、生活の場所を移しながら学んできて、最終的に日本に戻ってきた時に、30歳になって、鹿児島県の屋久島、今世界自然遺産になっておりますが、1982年に移り住んで以来、今も家も農園もそこにあり、今も自分の一番のホームベースが屋久島です。

そういう中で、一方ではものを書く、これは日本に紹介したらいいと思う本を訳すという仕事をしながら、自然と密接に接しながら、生活の形態も自給自足とまではいきませんが、自分たち家族が食べるものは安全な、納得いくやり方で作って、それからまた、自分たちの生活から出るものもなるべく自然を害さない生活を実践していました。それも一種のアクティビズムですね。自然と共生するようなかたちになるべく変えていくのも行動です。

長い間同じ地域に身を置いていると、ぼくは生まれたてから一番屋久島が長いのですね。26年ですけれども。親が動いた人たちだったので、本当に一つの場所に長く居たというのは、屋久島で、一つには季節、自然のめぐりというものを屋久島で体験することができました。それまで、どれだけ動いていたかということですが。鳥の渡り、桜前線、植物の移り変わりというものを、わたりというものを初めて体験し、そうして、一つの場所にみをおいていると、地域で起こっている、見過ごせない、黙っていられないというようなことが生じてくる、起こって来るんですね。

アクティビズムをしようと思って屋久島に住んだわけではないのですが、日本で自然、英語で言うWildness、人間の手の付かない自然の状態のところに住みたい思い、手が付かない状態の自然と身近に接しながら生きていける場所というのを探して、屋久島に移ったのですが、20年以上いると、普段は大人しくものを書いて暮らしていますが、何度か、それはやっぱりまずいのではないか、と、どうしても乗り出していってしまう曲面がありました。今日はそのあたりからお話しすることで、ぼくが体験的体感的直感的に理解しているアクティビズムをお話ししていきたいと思います。

アクティビズム、アクティビストには、文字通りアクトということが入っていますから、「行動する」という要素が非常に強い。それを指す言葉だと思います。

それから、最初にお話ししておくと、今日ぼくがお話しをさせていただくことは、ひょっとしたら第一回、第二回これまでの会議にご参加の方にとってはあたり前で、たいして新しいことでないよということではないと思われるかもしれませんが、ひとりの人間として皆さんと同じくサステナブルな社会というものを強く目指す人間のお話しとして聞いてください。

普通の今の世界というのは、基本的な単位というのが、ネイションステイト国民国家というのが区切りとなっていて、それの善悪は置いておいてですね。その中にそれぞれの国の中に生きる人間として社会に関わっていくには、有権者であったり、選挙するというかたちで、あるいは納税者として、必要な税金をおさめて、その税金をどう使うかというのを話しあったり、代表者を決めて、通じて決めると。

非常に短絡的というか、国とは何か、政府とは何かということを一言で定義すると、主義主張、イデオロギーというものを取り払って、国民国家という者で何をしているかというと、皆で出し合った税金をいかに自分たちのため、あるいは社会全体のため、あるいは世界全体のため、あるいは未来の世代も含めて、いかにより良くその税金を使っていくかというために政府があって、我々は税金を出し合い、有権者としてその税金の使い方を決めるということに参加して行くわけですが、それがどうこうということは後々お話ししていきます。

それに加え、現代社会では職能のプロフェッショナルとしていろいろ自分が関わる仕事で一生懸命成果を出し、そのことによって社会と関わってくという形があります。アクティビズムというと、それに加えて何なのかというと、それだけではどうしてもはみだしてしまう、足りない、見ていられないということがあった時に、やはり直接的に行動するということで、職能プロフェッショナルとしての生き方で足りないのがアクティビズムでないかと思います。

選挙、納税、仕事を通じてよりももっと直接的な関わり通すことがアクティビムであると思います。それがいろいろな形態があると思うのですが、よくあるのは、地域住民として身近な問題に気付き、それをなんとかしなきゃと思い、まわりの人と何かするというかたちがありあす。

それから、それとは逆に、地球全体の問題を考えた時に、有権者、プロフェッショナルのかかわりでは不十分だというところにアクティビズムがあります。

Think globally, act locally.という、言葉が巧妙で、当たっているところがあるんですけれども、今日はあえてまた再びこの言葉を持ち出す理由はですね、実際生きていくと、必ずしもこの言葉のきれいごとでは済まないと。この間にかなり矛盾や軋轢があり、この両方をもちながら、考えにいれながら、様々な問題を解決に向かって動かして行くという時に当たっているようでいて、でも非常に課題の多い標語だなと思うのでここにまた出しました。

基本的には合っているのですが、何でしょう、各論というか、現場ではなかなかこう言い切るだけでは済まないというところがある。そういうことを今日お話していきます。

3 原生林保護

屋久島の西部にある滝ですね。屋久島というのは原生林で有名で世界遺産になっているんですが、僕にとっては水の島。地球の水循環を縮小したような島です。目の前でぐるぐるとまわっていてそれが本当に健康なきれいな水がずっと身近に流れて巡っているという島です。

屋久島で生きていて黙っていられないことが本当は10以上あったのですが、大きいことが3つくらいありました。この事例をお話しすることで後々の展開に繋げてゆきたいと思います。

まず屋久島と言えば森なのですが、屋久島というところは日本の戦後の復興を林業の生産によって支えたといわれているくらいにチェーンソーがはいっていました。屋久島は一番高いところで2000m近くある山岳島ですが、その中くらいの高度に屋久杉の原生林の森があります。非常に巨木がある素晴らしい森ですが、そこをほとんど切りつくしたというくらい木を切ってしまった。

どこがやったかというと国です。農林水産書の中の林野庁営林局というところ伐採に関わってきました。屋久島では、1970年、60年代の終わりの頃から、あまりにも急激なスピードで伐採が進んできたので島の中からも外からもちょっと待ってよという声があがりました。

日本で一番早い自然保護運動の一つだったと思いますが、ある程度のブレーキが効きながら、しかし原生林伐採はずっと続いていまして、僕が1982年に移り住んでからも小規模でしたが続いていました。

しかし、この屋久島でまだやるか、と思いながらも、効果的なことはできずにいたのですが、1990年始めに林野庁がもう屋久島では伐採は最後だという計画を出してきた。最後の計画を出してきた中に、ある川の源流となっているすばらしい森が入っていたのです。その情報というのは当時の町長さんから我々にリークしてきた情報でした。多分、彼自身は立場上、思い切ったことはできないけれども、何とかできないかという思いが住民へリークするという形になったのだと思います。その情報を掴んで、酷い、最後だったらそこには手をつけずに終わるべきだ、という思いがありました。かたまりのまま残っている、それほどすばらしい森だったんです。

急遽二つのことをやりました。

ひとつは国内外の原生林を守るということに関わるような個人や団体、あるいは自然保護全体に関わるような団体に声をかけて、なぜか屋久島の伐採の担当は熊本ですが、その熊本営林局のFAX番号に、日本全国・全世界からここの森の伐採は見直すべきだという声を集中してもらいました。

それと同時に、どういう森かを見る。見るか、見ないかということが非常に大きな違いです。「現場感覚」というのが重要なところです。なるべく多くの人に見てもらうことが必要だろうということで、鹿児島県の主要メディアに声をかけ、原生林の見学ハイキングという名目で40〜50人を組織していきました。

僕はあまり、昔風の政治運動がんばるぞーといったものが好きではなくて、もうちょっとオシャレにビューティフルに物事をやっていく方が、効果があると思うので、なるべく変わったやり方、面白いやり方、クリエイティブなやり方をしてみようと思いました。もちろん一人でやったのではなくて、この問題について酷いと思っている島出身の方々や、僕のように外から入った人たちと協力してやりました。そういうハイキングをやることでメディアが動いて、そこを大きく取り上げてくれました。

という相乗効果で、なんと、確か2〜3週間かからないうちに熊本営林局は止めましたという発表をした。非常に珍しいことです。日本という国で地方の問題を住民が潰せるということは非常に珍しいことであります。それから次はおまけでいうと翌年か翌々年に屋久島が自然遺産に登録されたときに、そこが自然遺産登録種に登録されたと。そこが評価に加わったというのは二重に大成功だったと思います。

出典:星川淳氏講演パワーポイント

4 使用済み核燃料中間貯蔵施設

それから二番目に使用済み核燃料中間貯蔵施設(種子島)は、90年代の終わり、98年ごろに屋久島の隣の種子島という島があります。屋久島は丸く標高2000mmもある山山岳島ですが、そのすぐ東側、12kmくらいしか離れていないところに、南北に長い島フラットで、対照的な地形の島が種子島です。一番高いところで200mくらいしかない。その種子島の、またそのまた小さな離島に、日本中の原子力発電所から出る使用済み核燃料を一時溜めておく場所をつくるという計画が水面下で起こってきたわけです。

何でもこういうのは水面下で起こるのですね。地元の有力者と地元出身の政治家と、この場合でしたら政府と電力会社が画策してですね、目をつけたところにお金を注いで地元の基盤を作っていくと。どうもそういうことが起こっている、と割りと早い時期に聞きつけました。

僕は、原子力は人間とも生命とも共存できないと感じていて、特にチェルノブイリの事故があったあとからは原子力というのは止めるべきであるという考えをもっていました。

とにかく電気は都会で使うのに、危険とゴミと不安だけは地方の僻地に置くというのは、こういう離島や今の六ヶ所村など、ぎりぎりで生きているところに置くのは不公平ですし、民主主義的でないと思います。安全性としても、放射性物質を固めて、海に浮かんでいる島の、そのまた離島に本当に長く置いておけるのかと。中間貯蔵とはいいますが日本の原子力の現状からいいますと、一回置いてしまったら永久貯蔵になってしまう可能性も非常に高いものです。

何をやったかといいますと、世界遺産に登録された屋久島のすぐそばで、そんな放射能の影響を受けるかもしれないものを建てていいのかという疑問を作り、それを一つの理屈としました。

それが非常に多く共有されました。住民もそうですし、我々のように屋久島の自然が好きで移り住んだ人もそうですし、行政の人たち、議員の人たちがこれはちょっと止めてほしいよねと、気持ちが一つになったのですね。日本の政治というのはなかなか動かないのですが、地方の政治でも一つできることがあるんです。それは条例といって、地方自治体の憲法みたいなものを作れるのです。最初に情報を掴んでから3ヶ月くらいの間に、僕が住んでいる屋久島の南の方の行政区で、核物質持込禁止条例といって核兵器に関するものも、原子力に関するものも、未来永劫持ち込ませないという条例を制定したのです。

住民も共感して作ったので、そんなに早く条例化できたわけですけれども、非常に強いわけです。どのくらいの強制力があるかというのは疑問ですが、自治体の意思表明としては非常に強い。最終的には一市三町一村で核物質持込禁止条例を制定して、周辺を囲んで、この水面下の計画もどうにも動かなくしてしまった。これも非常に珍しい成功例です。

日本の僻地で政府が国策で進める原子力計画の一端があります。これが進まないと原子力というのは止まってしまうのです。原子力というのはどの原発でも施設のプールに溜めてあります。それがどの施設でもいっぱいになりかかっていて、それをどこかに動かさないと、原発が動かせない。

原子力というのは昔からトイレ無きマンション、といわれるように、最終的処分をどうしたらいいか分からないまま、始めてしまっている計画です。日本でも最終的な核廃棄物処理をどうしたらいいか分からない。計画はあるけれどもそんなものはどこも受け入れない、行き先がないわけですから。泥沼のようにして出てきた計画です。

今のところどうなっているかといいますと、下北半島に六ヶ所村という複合的な核施設がありますが、その近くで中間処理しようという計画になっていますが、種子島のように各地で水面下や表面化した計画があっても、ほとんどが受け入れられないでストップしています。種子島、屋久島では地方自治体が条例をつくることで拒否したという成功事例です。政府、電力会社からいうと失敗事例かもしれませんが。

5 ゴミ処理

それから三つ目のゴミ処理というのは、自治体のゴミ処理についてです。生活ゴミの処理の問題です。

これはお話しすると非常に大きな問題で、特に島というところは、生活形態はほぼ普通の現代生活をしていて都会と変わらないものが物流に乗ってやってくるわけですが、ゴミになったときどうするか。運び出すにもお金がかかる。しかし高度な処理、できるだけ無害な処理をしようとすると、そんなお金は末端の小さな自治体にはない。技術もない。ノウハウもないという状態です。矛盾の塊のような問題です。

それでどういう状態だったかといいますと、僕が移り住んだ当時から使っている焼却炉があって、でももう壊れちゃってほとんどまともに動かないと。しょうがないので焼却炉の外側に大きな穴を掘って住民がもってきたゴミを放り込んで重油をかけて燃やすという。もうダイオキシンも何もあったもんじゃない。そういう問題が、僕が移住したのが82年から90年の終わりまであり、一番自分としては胸の痛い問題でした。

なぜなら、屋久島の自然が好きで移り住んだにも関わらず、自分たちの生活のゴミをどうしても出さないようにはするけれども、どうしても出てしまう、そして、重油をかけて燃やしているところへ、ゴミを放り込まなきゃいけない。これは、環境の本を書いたり、訳したり、自分の生活もエコロジカルにしていくということをやっている人間にとってはどうにも我慢できないことの一つでした。なんとかとにかく、いつかどうにかしなければ、屋久島に置いてもらっている恩返しが出来ないという気持ちでした。

97年、所沢のダイオキシンの問題をきっかけに、焼却の問題、それからそこから出てくる有害物質の問題、それと環境ホルモンという内分泌撹乱問題というのがあり、ゴミの処理というのは非常に大きな問題としてクローズアップされました。

現世代にとってだけではなく、将来世代にとっても他の生物にとってもすごく大事だということが分かってきたので、それをなるべく多く住民や政府の人たちに伝えなくてはならないと。

とにかく野焼きを止めよう、とにかくきちんと分別して、ゴミになるものを減らしてちゃんとしたリサイクルルートに乗せようよということを強く言いました。

その頃、僕の提言によって南の自治体には環境政策課というのができて、世界遺産になったのに環境部署がないのはおかしい、といって作ってもらい、それと同時に、行政と住民との間でまたがって問題を話し合う機関として環境審議会も作って、自分もその中に選ばれ1995〜2005年まで、僕は役長という環境審議会の会長をしていました。

ですから、このゴミ問題というのは審議会の会長としても関わってなんとかしようと思いました。少しずつ成果が出て、屋久島は分別を比較的早くしっかりしました。

島に消費物資を運んでくる船は、帰りは空です。その空の船に行政から少しでもお金を出し、本土のリサイクル業者のリサイクルルートに乗せるということをやりました。

それから家庭からでた廃油を回収してバイオディーゼルに変えるということを鹿児島の研究機関と連携して、15年以上前からやりました。屋久島の公用車はこのバイオディーゼルで走っているということが10年くらい前から始まっていて、しかしこのごみの処理の最終的な処理だけは、なかなか手つかずにいたのですが、市が合併を念頭において合同の処分場を作りましょうと、徹底的な議論と自然遺産の島にどういうものがふさわしいかということを話し合いました。

上の二つは100点満点に近いですが、ゴミの問題は、行政に片足を突っ込むと難しくて自分としては60%くらいです。屋久島は水力発電で電力が余っているくらいの島なので、化石燃料を使わないで電気で蒸し焼きにして炭化する、炭をつくって溶融呂の燃料にしてどうしてもでてくる炭化も出来ないものを溶融して最終的な処分は屋根がちゃんと付いて、東京の日の出町のようなものではなくて、捨てるのではなくて、今は出来ないけれども、将来有効利用できるようになったときのためにストックしておくという物質別にストックしておくというストックヤードを作りました。

日本ではベストではないけれどもかなりいいほうかなと思っています。そういう事例が自分としては深く関わったものです。この写真は中国ですね。日本で処分しても特に電子ゴミは途上国に流れていくという問題があって地域で解決してもまだグローバルには解決していないという問題がありますね。

屋久島の話をしたのと同時にこういうことがまだ解決できていません。

出典:星川淳氏講演パワーポイント

6 アクティビストの7つ道具

事例説明で大体理解していただけたと思うのですがアクティビストの七つのポイントというのがあります。
最初は「初期情報」。なるべく早く情報を掴むということが重要です。よくあるのが、分かったときにはもう、根回しもすんでいて工事も進んでいる。それではなかなか止めるのは難しいと思うんです。

二番目は「正確な調査、分析」。物事の一体なんなのだと、それを調査し理解し分析し、次の戦略に役立てるというのが重要です。

三番目「戦略、戦術立案」はアクティビズムの根幹です。
いかにしてその目的を達成するかということです。これはケースバイケースで、皆さんも日々ご苦労なさって工夫されていると思います。特に日本は理詰の議論というのができない、それから社会も民主的なやり方というのが必ずしも得意ではなく、非民主的に物事が進んでいく。
「てこの原理」と書きましたが、あるところにちょっと力を加えることによって効果を出すと。東洋医学の「つぼ」といったほうがしっくりくると思っています。どこを押せば全体に健康になるかと。
それから「代案」。それはだめだけれどもこうしましょう、というのが理解や共感を得やすい。

四番目は更にそれに基づいて情報共有し発信していくことが鍵です。ここではメディアを味方につけるかが鍵ですね。今は、メディアが政府側にべったりついているので非常に難しい。でも地方にいくとまだ地方のメディアは現場に目を凝らすスタンスを持っていて、日本の中でいろいろな問題を解決していくときには地方のメディアだと思っています。

五つ目「参加拡大」。普通の人たちにいかに参加してもらうかが重要です。それがないと小数の人たちがなんか騒いでいるという風になってうまくいかないと思います。

六つ目は「交渉」。本当に直接の関係者、あるいはステークフォールダーとなる人といかに賢い交渉をしていくかということです。これまた日本社会独特で、理詰、筋だけ、原則論だけ言っていてもなかなか通らないのが難しいところです。

七番目は交渉と繋がっていて「妥結」と。妥結の妥は妥協ですよね。結は結果とか結論をだすということなのですけれども理想とする100を目指すけれども、現実社会として100を得られるということはめったにないので、どこをとるかというのがやっぱりつぼだと思います。
そして、お互い当事者がそれぞれなんとなくハッピーなところへもっていくというのがやはりつぼです。それには捨てるところ取るところというのが無ければならないし、それでも譲れないところというのもあるわけで面白い。そこはアクティビズムの妙義だと思います。

出典:星川淳氏講演パワーポイント

7 デザイナーの関与

そしてデザイナーがどう関わるか。デザイナー的な感性がものをいうところはどこなのか、というとそれは「戦略・戦術のデザイン」だと思います。
さっき言った「つぼ」、「テコの作用点」というのが、どこかをデザインしていく。
それから「クリティカルパス」。これはアクティビズムの言葉でグリーンピースではよく使うのですが、AがBに影響を及ぼして、C、D、E、F、G…となって、最終的な目標が達せられる、というようなアクティビズムの図面のデザインです。そういうところにデザイナーの関与するところはいっぱいある。それによってアクティビズムの質を上げていくことができると思います。

それから情報の共有、発信というのはそれぞれの立場で今でも多くのデザイナーが関わっていると思います。ポスター、Webサイトとか、色々なデザインがある。
それからメディアをいかに使うか。広告をいかに打つか。色々あると思います。

もう一つ面白いのは参加拡大のデザイン。いかにしたら色々な人々が出会い、物事をきちんと話し合い、問題解決につなげていけるような場を作れるのか。
ヒューマンチェーンというのはただ人の鎖という狭い意味だけではなくて人と人のつながりをどう作っていくかデザインしていくか。

例えば現代ではインターネットが非常に重要なのでネット上で効果のあるアクションをどうデザインしていくか。場合によってはもう何万人、何十万人という人が加われるような参加を拡大できるかということが、非常にデザイナーが関与する余地があるのではないかと思います。

こういったいくつかの例で、別に模範例ではないですけれどもアクティビズムの中に色々な形があると。これはグラフィカルなアクティビズムの一つの形でいかに被害の現場をインパクトのある形でみせるか例えばグリーンピースは毎年世界の賞をいくつもとっています。
こういうひどい被害もそうだけれども、じゃあいかに美しく共感を得る、これについて考えたいと見せられるかというのが重要ですね。あるいは参加者同士が触発されるようなデザイン。

出典:星川淳氏講演パワーポイント
出典:星川淳氏講演パワーポイント

8 第4権の活性化

これはものを書いたり、訳したり、現場の活動に関わったり、日本や世界の政治状況を見てきて、長年関わってきた持論ですけれども、民主社会というのは三権分立ですね。

立法、行政、司法。この三権が互いに独立してチェック&バランスをかけていることによって全体として政府、政府というのは行政を指す場合とこれ全部をさす場合がありますが広い意味で我々国民が作って使うのが政府ですね。それはデザインの一つなのですが、仕組みですね。これを動かすのはやはりこの三権が互いに独立してチェック&バランスをしていかなければならない。

しかし日本ではそれが一緒くたになっていて、分立しているのか非常に怪しい。これを歴史的に外から監視するのが第四権としてある、メディアだといわれています。僕はNGOセクターもこの第四権に入っていると思います。メディアとある種の共働、分業しながら、この三権分立の民主システムがきちんと動いているか監視し、働きかけていくという非常に大事な役割が第四権にあります。第四権にあたる、メディアとNGOセクターですが、メディアは報道だけですね。冷酷なようだけれども基本は報道です。NGO市民セクターは手を出す。分業なので、その違いは違いとしていい。そういう違いを含みながら第四権で日本のように三権分立が怪しい社会においてはこの働きが重要ではないかと思います。メディアも三権分立にくっついてしまうような社会において、ここにデザイナーがどう関わっていくか。

出典:星川淳氏講演パワーポイント

9 Deep Design

最後に、ディープデザインという自分の生活の中から出てきた言葉です。7〜8年前、同じタイトルの外国のデザイナーが書いた本を見ましたけれども。

デザインの進化というのは横の広がり。生態学的な把握の判断というのは横の水平な広がりですよね。より広くたくさんの人と共有していく。

それから縦の垂直的な問題の共有というのは世代間を越えて共有していくという両方が必要ですけれど、デザイナーがより深くコミットしていくことで「ディープデザイン」という領域が開けていくのではないかと。自分はディープデザイナーとなれればいいなと思っています。

出典:星川淳氏講演パワーポイント

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